2017/03/20

書評:司馬遼太郎「覇王の家」|リーダーに必要な3つの資質

 
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上司から「歴史小説を読め!」と言われたことはありませんか?

誰でも一度は、通勤ラッシュの中で歴史小説を片手に、吊り革を握るご年配のサラリーマンを見かけたことがあるでしょう。

なんでそんな状態でも歴史小説を読むのか。それは、歴史小説が魅力だからに他なりません。

今回は、数ある歴史小説の中から、司馬遼太郎の名作「覇王の家」をご紹介します。

リーダーに必要な3つの資質とは?

 

覇王の家は、徳川家康が主人公の歴史小説です。

家康の人間性に迫る一方で、家康の家臣である三河武士の本質を探っていきます。

生涯の中で、家康は自身の人間性が試される場面に何度も遭遇します。

その中から読み取れる、リーダーに必要な極意は3つです。

 

1.立場を忘れない

家康は織田家と今川家に挟まれた弱小大名として生まれました。

家康の率いる三河武士団は、その中には家康に匹敵する力を持つ者も所属する、自立した武士の共同体です。

フリーランスの人々が集まって一つの共同体を作っていると思ってもらえればわかりやすいでしょうか。

その武士団の棟梁として支えられているのが家康です。家康と家臣団の立場はほとんど対等に近いものでした。

そして、家康自身もそのことはよくわかっていました。

織田家、豊臣家との違い

「ホトトギス」の話でもよく比較されるように、家康の話をするときには織田信長と豊臣秀吉の存在は欠かせません。

この3人は全く異なったリーダーシップをとっていました。

信長の場合

信長は、ブラック企業の社長タイプ。

部下を恐怖で支配し、自らの強いカリスマ性で組織を拡大していきました。

この家臣団との強烈かつ完全な主従関係は、戦国時代の中でも信長だけがもつ特殊な性質です。

秀吉の場合

秀吉は、自分の身内を大事にする家族経営で組織を強くしました。

加藤清正や石田三成は子供のころから秀吉が世話をした、いわゆる子飼いの大名です。

軍事や内政の重要ポジションを彼らに任せることで、裏切りのない組織運営を行うことができました。

家康の場合

対して、家康は…遠慮をしていました。

「家康の徳川家のばあいは、家康は盟主としてかれに属する族党群の族長どもに対して大きな遠慮がある。この「遠慮」の感覚が、いわば内部政治というものであった。家康はその麾下の三河武士団をよく統御していたが、しかしかといって信長のようにその重臣をまるで奴隷のように追いつかうという立場ではなかったために、かれらにこまかく心くばりし、ときにはかれらの歓心を得ようとするような言動もし、とくに彼らの自尊心を傷つけることのないようにこまかい配慮をつねにはたらかせていた。

(司馬 遼太郎|覇王の家)

強いリーダーシップを発揮しなかったのです。

立場の弱さをわかっていた家康は、自分が家臣たちの意見をないがしろにすれば、棟梁としての立場はすぐに崩れ去るとわかっていました。

部下に任せ、成果を上げさせることで異常と呼べる忠誠心の強い集団を作り上げたのです。

 

2.模倣する(マネをする)

自分を負かした人物から、家康は戦術と人間性を学び取りました。

戦術を武田信玄から学ぶ

まだ、織田家の家臣だったとき、家康は武田信玄の上洛を止めるため戦いました。

「三方ヶ原の戦い」と呼ばれるこの戦いで家康は大敗します。

このときの悔しさを家康は決して忘れませんでした。

おめおめ居城に逃げ帰った自身の姿を肖像画に残したとの逸話があるほどです。

武田の騎馬軍団の戦術を家康は吸収します。

武田家が滅んだとき、居場所のなくなった武田家臣を引き取り、武田の人材も手に入れます。

この武田の模倣の集大成が、家康が持つことになる最強の軍団「井伊の赤備え」です。

今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』に登場する井伊家ですね!!

人間性を秀吉から学ぶ

秀吉と戦った小牧・長久手の戦いの時、秀吉は家康の重臣だった石川数正を引き抜きます。

いきなり競合会社に自分の会社のナンバー3が引き抜かれたようなものです。

この時の苦い経験をそのままにしないのが家康です。

秀吉の「人たらし」の力を吸収していきます。

そして、家康は秀吉から模倣した「人たらし力」の成果として、秀吉の『家族』であった加藤清正や福島正則を味方に引き抜くのです。

 

3.忍え耐ぶ

家康には松平信康という長男がいました。

この長男、信長によって切腹を命じられます。

この切腹の決め手は、なんと家康の部下の告げ口なのです!

さらになんと、家康はその告げ口をした部下を重要なポジジョンに生涯置き続けるのです!

信康は武勇があり、家康の後継者としては申し分がありませんでした。

後年、家康は関ケ原の戦いの前日、陣地を立てているときに「信康が生きていればこんな苦労はせずにすんだのに…」と漏らしています。それほど愛した息子だったのです。

そんな信康ですが、唯一欠けていたのが家臣への気遣いでした。

生まれてすぐに人質に出された家康と違い、信康は生まれついての権力者の息子だったのです。そのためか、家臣を下に見る行動をする時がありました。

先ほども触れたように、三河武士団と徳川の立場はほとんど対等です。

信康の態度に不満をもった徳川の家臣団筆頭の酒井忠次は、家康の正室に謀反の疑いがかかった時に、家康の同盟相手だった信長に真偽を問われます。

信康は謀反の企てを知りませんでした。

しかし、忠次は信康もグルだと告発するのでした…。

結果、信康は切腹をすることとなります。

この酒井忠次、家康に復讐されたかというと、そうではありません。

その逆です。

なんとその後も家康の大事な家臣として手厚い待遇を受けるのです。

酒井忠次は、家康の家臣団で一番の有力者です。

そして、信康が切腹を命じられた当時、最大の権力者は信長でした。

酒井忠次を斬り、信長と戦うことになれば自分と家臣が滅びるのは明白です。

家康は息子を殺された怒りを押し殺して、徳川を守ったのです。

まさに「覇王の家」の主と呼べる行動ではないのでしょうか。

 

まとめ

過去の偉人の行動や言葉は、現代においても活かせます。家康が天下をとった3つの要素を取り入れて、あなたも覇王の家の主になりましょう!

 

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